神社に行っても「自分のお願い」をしなくなったなあ

もう年末ですか。今年も早かったです。

ついさっき、買い物のついでに近所の神社に参拝してきました。

また年末年始にいくかもしれないけど。

神社に行ったら所作をどうするかっていうのは、二礼二拍手一礼ですよ。

1.まず二礼(おじぎ2回)

2.二拍手(手をパンパン)

3.目をつぶってお祈りして、

4.一礼(おじぎ1回)

忘れないようにここにメモがてら書いておきます。

最近ぼくは、自分のお願いをしていないことに気づきました。

この記事を書いた人
セン

セン

・Webメディア運営13年目

・運勢や開運の話が好き

・ラッキーカラー地味に気にします

・白檀(サンダルウッド)の香りが好き

・家を神社にしたいミニマリスト

・元書店員4年、元古書店店主10年、読書・選書が好き

・I am a Japanese creator.

自分が納得いくように生きていると、神様にお願いをする必要がないから「報告」をしている

自分が日々、納得いくように働いて働いて、たまに遊んで暮らしています。

わりと順調に物事が進んでいて体も健康体でいられてありがたいことです。

そうなってくると、「〇〇が△△しますよーに!」…っていう

いわゆる「自分の願いが成就して幸福になるためのお願い」をしないようになってきていることに気づきました。

自分がこうなりたいって思ったことを、綱引きのように自分の意思となけなしのちからで引き寄せができてきているから。

自分が望んだ未来を、自分の手で手繰り寄せることができてる実感があります。

なので、二礼二拍手一礼のあとにぼくがなにをするかと言うと、

「報告」です。

「おかげさまで健康で、願ったことも叶えられています。ありがとうございます」っていう報告なんです。

いろいろ山あり谷ありだとしても、自力で前に進めているうちは

神頼みしなくても、なんとかこの先も大丈夫なんじゃないかっていう根拠のない自信が芽生えてきます。

代わりに家族や身近な友人などの健康や幸福をお願いするようになった

とはいえ、自分の力だけじゃどうすることもできないこととか

力が届かないであろうことをかわりにお願いしています。

それは、「家族や身近な友人の健康や幸福」です。

いつかは別れが来るかも知れない。死後の世界があるのかもわからない。

自分の未来を手繰り寄せている時に起きるアクシデントな不幸として思いつくのが、

親しい人間の不幸なんです。

だから、それを「なんとかできませんか?」とお願いをしています。

例えばぼくが、急に悩みだしてハゲるかもしれない。趣味の登山で親指の爪が剥がれるかもしれない。

そういった自分に起こる軽い不幸なんて、心の持ちようとか圧倒的な回復力でどうにだってしてやればいいんです。

仕事も遊びも人間関係も、自分がかかえる悩みは大したことない。

自分の運命は自分で這いつくばって取りに行けます。

けど、自分以外はそうはいかないですからね。

だからお願いをするんです。

そもそもなぜ神社に行くのか。空気感が好きなんでしょうね

自分のお願いをしないのになぜ神社に行くのか。

それは、ようするに

凛とした空気感が欲しいのかもしれません。

遠くで耳鳴りがしそうな。

風がピタッとやむような。

あの空気感は独特のものです。

人気スポットの混んでいる神社でも、なぜかほんのひととき

「ピーーン…」とした静けさを感じる瞬間があります。

あれなんなんでしょうね。

自分が「そういうテンション」になっているからなのでしょうか、それともやはり神社とか寺とかがなにかそういうパワーを持っているんでしょうかね。

まとめ、結局はたまに神社に行って二礼二拍手一礼して心をニュートラルにしたいのかも

神社に行った時、ぼくは自分のお願いじゃなくて報告をして、

親しい人間の無事をお願いするという話

でした。

霊感もなんにもないぼくですが、神社に行くとフッと心が静かになる瞬間があります。

おごそかな雰囲気にのまれてそうなっているのか、なにかパワースポット的なチカラがあるのか、

わかりませんが、その「静けさ」を求めているのかもしれません。

年末年始に限らず、数ヶ月に一回とか、たまーに神社に足を運ぶ自分がいます。

まずは健康面でも時間の余裕的にも「神社に行くこと」が出来るのがありがたいことです。

くれぐれも忙殺されないように気をつけながら、

この先も神様に「報告」をしに通うつもりでいます。

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